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ゲイ体験談ブログです。ゲイ出会いのエロ話大公開!
私の場合、同性に欲情・恋愛する自分に気づくより早く、知識として「ゲイ」という言葉・存在を知りました。「ゲイ」という人たちがいることを知って、「僕はこれ(ゲイ)で行こう!」と決心して、それで「ゲイになって」から後に同性に欲情するようになったというのが順番です。
私が「ゲイになる」以前のセクシュアリティをかいつまんで説明しますと、私がオトナの男の体に興味を持ったのは小学校の高学年から中学生頃だったんじゃないかと思います。私は体の発育も遅かったし精神的にもオクテな方だったので、休み時間に教室で熱っぽく交わされる「性」に関する話(話の輪の中心にいるのは大概マセた女の子でした)も一方的に聞き手に回っていましたが、でもそれは私と同様にまだ第二次性徴を迎えていない他の男の子達にしても同じことだったように覚えています。「誰それはチン毛が生えた」だの「**ちゃんはもう腋毛まで生えた」だの「**君はもう精液が出たんだって」といったゴシップがからかいと好奇心と羨望の入り混じった興奮状態で語られていました。成熟した大人の男の体に興味を持つのはこの世代の男の子達にはよくあることだと思いますし、私の興味がその域を越えて「同性愛」と呼べるものであったかどうかは疑わしいです。
中学生になると仲の良い同級生らと股間の触りっこをしたりしてた時期もありました。それが「気持ちいいこと」であるのは十分に自覚していましたが、でもそのことと「セックス」が関係しているとは微塵も思っていませんでした。何しろ「セックス」と言えば女と男が性器を挿入される/することという知識しかなくて、もちろん同性間でセックスをする…セックスできるという知識も無かったわけですから。今となってはそれだけ無自覚でいられたことが自分でも信じられませんが、逆にもし「触りっこ」がセックスの一形態なのだと認識していたら、恥ずかしくてできなかったでしょうね。これを「同性愛の萌芽」と考えれられなくもありません。でも私の記憶を辿る限り、当時の自分の「欲望」のあり方は同性に向いていたというのではなく、単に「異性でない」(ゆえに話をしたり触りっこしたりするときにハードルが低い)からという理由が大きかったように実感しています。ましてやそこに恋愛感情は無かったですし。ちなみにオナニーは小5くらいから始めていましたが、それも何か欲望の対象をファンタジーとして描いてやっていたわけではなく、純粋にカラダが気持ちよくなることとしてやっていました。
さて、話は戻って…私が始めて「ゲイ」という言葉を知ったのは、中2の自習時間に同級生(女の子)が貸してくれた少女漫画です。時は1970年代の終わり。少女漫画の世界では竹宮恵子・萩尾望都・大島弓子らを初めとする作家によって様々な形の「同性愛」が描かれ始めていた時代です。もしもこのときに最初に出会ったのが竹宮恵子(たとえば「風と木の詩」)だったら私はかなり悲惨な10代を送っていたと思いますけど、幸いなことに同級生が貸してくれたのは青池保子の「イブの息子たち」でした。知らない人も多いと思いますので解説しますと、これはラブコメディなんですね。ゲイの美青年二人とノンケの美少年の三人組が時空を越えて繰り広げる、SFチックなラブコメファンタジー。
この漫画を読んで初めて私は「ゲイ」という言葉や概念を知りました。と同時に、「ゲイって楽しいんだなあ」というポジティヴなイメージを抱きました。何せラブコメディですから。いま思えば、時代が時代だけにこの漫画の中での「ゲイ」は今私達が使っている「ゲイ」とはやや異なる部分も多いんですけど(この漫画の中ではゲイとトランスジェンダー、あるいはトランスベスティズムは混同されています)、そんなことよりもストーリーが「楽しい」ということがずっと重要だったわけです。だからこそ読んだときに自分は「ゲイ」なんだなと素直に認めることができたのだと思うんですね。と同時に、「よし、僕はこれでいこう!」と思ったことを今でもはっきり覚えています。
好きな男の子ができたり、男の人とヤラしいことをしてるの想像してオナニーするようになったのは、その後のことです。10代の恋愛や欲情は結局報われることが無くそれなりに辛い日々が続きましたが(その話はまた別のお題のときに譲ります)、それにもかかわらず私は自分がゲイであることに関しては一度も悪いことだとか間違ってるんじゃないかとか思ったことがありません。それはひとえに最初の「ゲイ」との出会いがポジティヴなものだったお蔭だと思うのです。同性愛に関するまともな文献がほとんど無かった(たぶん)時代にあって、それは本当にラッキーなことだったことだなあと。青池先生にいつかお会いする機会があったらお礼を申し上げたいです。ほんと。
最近はテレビをつけるとバラエティ番組には必ずと言っていいほど、いわゆるオネエと言われるセクシャルマイノリティの方々が出演しています。
こうした人々に対して私自身はこの人達は波乱の人生を送ってきたのだろうと思い、思わず拍手をしてしまいたくなることもあります。
通常の人々以上に生きにくさを感じている同性愛者の方々の強さには感服するものがあります。彼らの意志の強さや自由な生き様はある意味では羨ましくもあるものだと思います。
私は同性愛者の恋愛について日本では結婚が認められていない分、同性愛者の方々の恋愛観は様々なものに分化しているように感じられます。セクシャルマイノリティの方々も同様に様々な体系で存在しており、そもそも通常の男女の恋愛と比較するには困難なほど別のものであるように思います。
恋愛にいたる過程も、つきあっているという関係性も通常も関係とは異なり、メリットデメリットでは語れない部分もありますので何とも言えません。
しかし、こうしたセクシャルマイノリティの方々を見て安易に自分もそうかもしれないと感じてしまうことは危険なことではないかと思うのです。
現在の日本ではこうした人々を見る機会は格段に増えました。そしてカミングアウトをしやすくなった環境に変わりつつあるのも事実かもしれません。こうした現状で僕もあるいは私もそうに違いないと安易に考えそうした道に進んでしまうのは間違っていると思います。
日本の同性愛観は今劇的な変換点をむかえているのかもしれません。しかしセクシャルマイノリティというのはあくまでアンダーグラウンドなものであり、安易に考えてはならないものだという意識が現在の風潮には欠けていると思います。私はこうした安易な同性愛観に警鐘を鳴らすべきであると考えています。